三月のある朝、出勤して病棟のかぎを開けた時だった。ホールにいたAさんが、いきなり私に抱きつき「好きよ、大好き、田中さん本当よ」と言った。細く小柄なAさんは、女学生のように見えるけど、二十七歳。毎日病と闘っている。

 私はAさんを抱き止めながら涙がでそうになった。私は後わずかでこの病院を去る。たった六ヶ月だったけど、いつも私を支えてくれたのは、Aさんのような患者さんだった。

 Aさんの部屋へは暇をみつけて、よく行った。Aさんはノートに単語を羅列することを日課としている。単語だけで、文章にならない。大学ノートにいっぱ並べられた言葉の豊かなこと。どうしてこんなに出てくるのかと思うぐらい。一つ一つ読んでいるとAさんの人生が浮かんでくる。

 主婦だった十八年のブランクを経て、勇気をもってこの病院へ就職してよかったと、今思う。精神科病棟の勤務は、看護学生だった以来のこと。患者さんの多くは純粋で繊細だ。私が気持ちを込めると、確実にこたえてくれる。あらぬ方向を向いている時は、心が届いていないときだ。純粋で繊細であることは、一般社会ではいつも良い結果を生むとは限らない。傷つくことも多い。けれどAさんの行為が、私に勇気と自信を与えてくれたことも確かだ。

 四月から私は訪問看護を始める。Aさん「抱擁」をありがとう。

  (1994.3.19 朝日新聞「ひととき」)


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