雨が降っている。雨脚がしだいに強くなり透明のガラス戸がうっすらと曇りはじめた。室内の気温が少し下がり肌寒い。 

 「滝さんベッドに横になりましょう。」

 佐知は滝さんの背中に手をまわした。

 滝さんの背中は石のように硬かった。ベッドの縁に座り、細い脚は畳に揃え身動きもしないで前を見ている。滝さんが見ているのは、縁側の向こうの庭先にある朽ちたブランコだった。それは昔、滝さんの娘の麻里さんや亡くなったお孫さんをよく遊ばした物だという。

 その辺りは、晴れた日には傍の紅葉が枝をのばし、後ろの橘神社の杉が影をおとし、柔らかな日だまりをつくる。芝生は青く広く、思い切りかけ回れそうだ。今は雨が跳ね薄暗くしめっぽい穴の中のように見える。

 滝さんの目には、何が見えているのだろうか。

 ふとタンス横をみる。いつも花が生けてある小さな台。お孫さんはたしか礼子ちゃんといった。礼子ちゃんを囲んで麻里さんと滝さんの笑んでいる写真はなかった。麻里さんが嫌がって片付けるのを、いつの間にか滝さんが出す。滝さんは歩けないのだから。麻里さんが出すのだろう。

 滝さん、と促し佐知は直ぐ止めた。佐知の左手に絡ませた滝さんの指が震えているからだ。

 滝さんの認知症は徐々にすすんでいる。言葉がでなくなって久しい。ベッドから一歩も歩けない。かろうじて伝わる佐知と滝さんの指の合図にも似た触れ合い。それも少なくなっている。

 「お ま い り」

 滝さんが言った。まわりの空気が少しうごいた気配がした。滝さんが笑ったのだ。佐知は指先に力をこめる。次の言葉を聞きたかった。

 玄関の扉が開く音がした。麻里さんが仕事から戻ったようだ。途端、滝さんの顔から笑顔が消えた。

 やっとの思いで滝さんをベッドに横にし、着物を整え、軽く目を閉じる滝さんを見て佐知は部屋をでた。

 麻里さんの居る居間にいく。居間の入ってすぐ横にある用紙に、訪問時間終了を記入し印を押す。

 麻里さんは広い居間の片隅にあるテーブルで、何か書物をしていた。佐知が声をかけると、振り向いた。佐知は、体温も血圧も安定していて、床ずれも殆どよくなっていると、滝さんのことを報告する。

 「そう、ありがとう」

 麻里さんは素っ気なかった。何時ものことで慣れている。もう少し滝さんの事を聞いてほしかった。そうすれば、あの言葉を伝えたかった。何が言いたかったか一緒に考えたかった。麻里さんは滝さんのことを諦めている。変化など起こり得ないのだと。

 麻里さんに送られて外にでると雨が降り続いていた。やみそうも無い。レインコートを着て自転車乗り、次の訪問宅に向かう。雨は強くなり風もでている。このままではコートの下まで雨がしみ込む。訪問先の玄関でずぶ濡れで立ち、準備することを思うと気がおもかった。すぐに仕事に取りかかる自信が無い。

 訪問看護は体力と相手を思う気持ちがなければできない仕事だ。こういう日は、二年前安易にこの仕事を選んだことを後悔する。あの頃佐知は、夫との別れ話で辛い日をすごしていた。結局、小学校に入ったばかりの息子の涼と生きていく道を選んだ。生活のため夜勤が無い事と、勤め場所が近いという条件だけで就いた。

 雨はますます強くなる。家で待っている涼の姿を思い浮かべた。滝さんの震える指を感じた。少し勇気がでた。佐知はペタルを力いっぱい漕いだ。

 訪問看護ステーションに帰ると佐知は、その日の訪問者の記録をした。担当医に報告書を書く。次月の看護計画を立てた。

 自立支援を目的とする、と書きながらふと考えてしまう。佐知達が看る多くの人は独り暮らしで、身の回りの事ができる人もいるけど、自立からはほど遠い。いつか動けなくなる。寝たきりなると、食べ排泄する事だけで日が終わる。多くの時間がとられる。くる日もくる日もつづく。介護に疲れた人が出口の無いトンネルに入ったみたいだと言ったことがある。眠る時間がない。外出もままならない。テレビを観るのも止めた。趣味も辞めた。自分の事は二の次、三の次と言った。けれど彼らは逃げたりしない。佐知はそういう人を目にすると、ほっとする。惹かれる。羨ましく思う。繋がっていれば修復し、壊れれば又修復し、いっか希望に繫げる事ができる。

 今日は仕事が楽だった。訪問予定の一人が急にショートステイを利用するためキャンセルになったからだ。

 仕事を終えて外に出るとすでに薄暗かった。日々日が短くなっていく。残暑がうそのように秋風が心よい。待っている涼のことを思い、今日は少し手の込んだ料理をしようと佐知は急ぎ足になった。

 途中にあるスーパーに寄る。夕飯の時刻を過ぎているせいか、店内の人はまばらだった。佐知はカートに籠をのせ野菜を見て回る。ふと頭を上げ前をみる。魚肉売り場辺り。滝さんがいる。歩いている。まさかと思った。

 結い上げた髪、着物の柄、円背、いつも見る滝さんだ。佐知は目を疑った。吸い寄せられるようにカートを引く。滝さんは歩く、足取りは意外にしっかりしていて、すでに戸口のあたりだった。佐知はカートを横に置き後をつけた。店を出ると細い分かれ道があって、一方は橘神社につづいている。滝さんはその方向にむかっている。その時、田路さんと声を掛けられた。ヘルパーの山田さんだった。山田さんは今日の訪問先の事を話す。佐知は上の空で相ずちをうち、前をみたが、滝さんの姿はなかった。

 門扉を押すと錆びた音がした。玄関の灯りは点いない。鍵をあけ手探りで灯を点けると佐知は、居間にむかって「ただいま」と声をかけた。「お帰り!」元気な声がかえる。ほっとして居間にむかう。

 電気の点いていない薄暗い中で、涼がパソコンの前に座っていた。もう、電気も点けないでとスイッチを押しかけて佐知は、ふいに胸を突かれた。涼の辺りに漂っている淋しさ、今電気を点ければ、先聞いた弾むような声も消えてしまう気がした。

 涼ごめんね。でもどうしようもなかったの。涼はお父さんと仲が良かったけど、母さんは耐え難かった。涼や母さんより、他の女性を本当に好きになるなんて。それは涼、とても悲しいことなの‥‥母さんは崩れてしまいそうだった。声にならない言葉を飲み込んで台所へ向かう。

 おもう買い物が出来ず、いつもの定番のカレー料理をつくる。

 皿を並べテーブルを調え、涼を呼びに行こうとソファーの前を通ると、ランドセルが放ってあるのが気ずいた。かたずけようと持ち上げたら、チリン、と音がした。ランドセルの横ポケットに鈴が付いている。もう一度持ち上げると、チリン、チリン、と澄んだ音がする。こんな物が、クラスで流行っているのかしらと、思わず頬が緩む。

 また、カレーか。まあいいや、母さんのは美味しいから毎日でもいいよ、と言いながら涼は口いっぱいにほうばる。けっこうな食欲だ。三年生になって一段と言う事も大人ぽっくなってきた。

 「涼、あのランドセルに付けている鈴、なに?」

 「ああ、あれ魔法の鈴」

 「魔法の鈴?」

 「そう、たった一つ願いが叶うの、チリンと鳴らすとね」

 「へえ、鈴で願いが叶うなんて、なんて単純なの」

 「もう、母さん分かってないだから。あれは特別な鈴なんだ。」

 「特別といっても、見たところ普通じゃない、大き小さいの差はあるけど」

 「特別、と く べ つ その意味は言えません」

 「言えば魔法が溶けるとか」

 と言ったら、母さんに内緒で教えてあげると話してくれた。

 何でもテレビで放映していたらしく、その鈴は夜中、神社に独りで受け取りに行かなければならないと言う。

 まるで肝試しのような話。信じた訳ではないけど、佐知の目を盗んで家を抜け出し、神社まで行くとは思えないけど、そうまでして欲しい願いは何だろうと、涼の気持ちを知りたかった。「お父さんの所へ行きたい」と言われたら、佐知は生きる気力がなくなる。

 次の日、滝さんの家を訪問した。

 麻里さんがメモを置いている。急の仕事で出かけることになったらしい。麻里さんは保険の外交の仕事をしていて、佐知の訪問時間に合わせてくれる。ほっとした。途中、自転車を漕ぎながら考えた。昨日の滝さんのことを、麻里さんに話そうか話すまいか、話したら麻里さんはどんな反応をするだろう‥‥

 驚いて、歩けるはずが無い、店に行くはずが無いと言い、佐知が可笑しくなったとさえ思うだろう。無理もない。佐知も未だ疑っているのだから。けれど佐知はこの頃思うことがある。身体の動けなくなった人、寝たきりになった人の身体に触れ接し、身体を拭き、手を摩り萎えた足を曲げ伸ばし繰り返していると、内面に秘めた想いを感ずる。内なる声。その思いが高まれば、想像もしない力がでる。歩けることだって不思議ではないとさえ思える。

 滝さんは眠っていた。穏やかな顔だ。微笑んでいるようにみえる。前の滝さんはよくこんな顔を見せた。橘神社の境内にも車椅子で出かけた。縁側で折り紙やあやとりをした。滝さんの話はもっぱらアルバムの中の礼子ちゃんの話だったけど。

 礼子ちゃんは五、六歳の可愛い盛り。礼子ちゃんはそばにいた。今にも外から帰ってきて、滝さんの膝で語りかける、そう言う話し方だった。亡くなった理由は分からないけど、滝さんの目には見えている。話が変わる度目元が細くなって笑顔があふれる。側にいて佐知は心が和んだ。癒されていた。

 「滝さん」声をかけた。すうすうと寝息がする。このままだと、永遠に眠ってしまいそうだ。起きて貰わなくてはならない。あたりを見、移り変わる季節、日々生活の臭いを感じて貰わなくてはならない。

 麻里さんの用意してくれた蒸しタオルで体を拭くと、佐知は滝さんをベッドの縁へ座らせた。

 庭の向こうの紅葉が日の光にかがやいていた。ほら紅葉、佐知は足を摩りながら話しかける。滝さんの目は宙に浮いている。無表情で言葉もないけれど、話しかける。細くなった足首を曲げながら、せめてトイレに洗面所まで歩けたらと。けれど麻里さんが、滝さんが歩ける事をほんとうに望んでいるだろうかとも思う。

 佐知が担当した人の介護者の皆が皆、歩ける事を喜んではいなかった。徘徊を繰り返す母親に疲れた娘さんが、寝たきりになってほっとする。これでやっと安心して眠れると言った。人ってなんと勝手なんだろう思いつつ、佐知の母親が徘徊したら、片時も目が離せなかったら同じ事を考えるだろうとおもう。

 ふいに、鈴の音がした。

 滝さんが鈴を握っている。

 滝さんこれは?問いかけた。滝さんの手がにゆと伸びて佐知の目の前でとまる。鈴を持ち上げると、チリンと音がした。涼の言った魔法の鈴がちらと頭を過る。

 「滝さん橘神社へ行ったの‥‥?」

 滝さんは無言で前を見ている。その目がすうと宙を切りテレビの画面で止まった。何も映って無い黒い画面。

 滝さんはテレビを見ている。認知症の人はテレビを見ない。見ても内容が解らないからだ。それは周りの者が思うだけで、本当の事は分からない。

 ふと、人形の話を思い出した。夜中動く、遊ぶと言う話だった。人が眠っている間に起こる事で、決して見る事が出来ないと言う。子供の頃佐知はその話を信じた。大切な人形は友達で、会いたくて、話がしたくて、眠ったふりをして指の間から見た。何度も。

 麻里さんは鈴を手にして呟いている。母に手渡した覚えも無いし、母が好んで集めていた事も無いし、ヘルパーさんに買てもらったのかしら‥‥ね

 佐知は麻里さんの手元を見ながら先から立ちつづけていた。言葉が首もとまで競り上がっているのに出ない。

 諦めた麻里さんは、鈴を無造作にテーブルに置いた。佐知に「何か?」と問う。

 「その鈴を‥‥」

 と麻里さんに言う。麻里さんは不思議そうに小首をかしげて手渡してくれた。

 佐知は鈴を握りしめると一気に言った。

 滝さんが歩いていた事を、神社に向かっていた事を。

 麻里さんはポカンと口を開けている。

 涼の言った「魔法の鈴」の話もする。

 麻里さんはまだ口を開けている。

 人は強い願いや念いがあると、想像もしない力がでる。それを信じていると、佐知は語気を強める。

 麻里さんの口は開いたままだった。

                     

 次の週滝さんの家を訪問すると、奥の方で呼び声がした。佐知は鞄を置くと急いで縁側にまわった。

 「田路さん手伝ってほしいの」 

 廊下に車椅子に座った滝さんがいて、麻里さんが縁側の段差にスロープを掛けようと四苦八苦していた。

 外は快晴で、空気も澄んでいる。「母をあそこに連れ出したいの」麻里さんは紅葉した紅葉の辺りを指さした。

 佐知は滝さんをゆっくりスロープを伝って降ろす。芝生は、まるで春の芽のように柔らかい。

 「さあ、足を出して。気持ちいいから。」

 麻里さんは、滝さんの靴下を脱がす。細く血管の浮き出た足が草に触れると、ピクと動いた。やがてあし底がピタと地面についた。

 麻里さんが背中に手を回し、滝さんを立たせる。

 鈴が鳴った。麻里さんの腕に紐で結んだ鈴が付いている。「そうそう、その調子」麻里さんは繰り返す。その度鈴が鳴る。滝さんが少し微笑んだ。麻里さんは真剣そのものだ。佐知はその姿を何時までも見ておきたかった。

 

 三ヶ月後、滝さんが亡くなった。風邪を拗らせ肺炎が原因だった。

 初七日がすぎ、一週間たった。

 佐知は自転車を止め、滝さんの家の裏門前に立っていた。訪問の帰り何度も立ち寄ろうとおもいながら日数をすごし、今日こそはとベルに手を――。チリンと音がした。ふと空を見上げる。空耳だろうか。

 戸が開いて麻里さんが出てきた。箒とちり取りを持っている

 「あら、田路さん」麻里さんは驚いて佐知を見る。佐知は頭を下げ、お悔やみの言葉を述べた。

 「お参りに来て下さったの、表に回って下さればいいのに」

 「いえ、ここの方が」そう言って佐知は庭に目を向ける。

 「そうね、あなたは何時も裏門から訪問して下さった。母の姿がよく見えるからと言って。」

 花に囲まれて微笑む滝さんの写真は、佐知の好きな表情だった。見上げる麻里さんは、滝さんによく似ていた。こんなに似ていたのかと、まじまじと見る。

 「あなたには、母が本当にお世話になって‥‥」

 麻里さんは黙った。目もとが揺れていた。やがてぽつぽつ語り始めた。佐知宛に書こうとおもっていた手紙の内容を。

 麻里さんは離婚していた。礼子ちゃんが幼い頃で、滝さんと礼子ちゃんを養う為に、働かなければならなかった。麻里さんは滝さんに礼子ちゃんを託して、働きに出る。一年後不幸が起こる。滝さんが目を離した隙に礼子ちゃんが亡くなる。自動車事故だった。折り悪く、滝さんが友達とお茶を飲んでいたときで、麻里さんは半狂乱んになって滝さんを責めた。生き甲斐は礼子、礼子唯一人だったと言い思い、麻里さんは悲しみを抱え込む。

 「母は礼子を、取り戻そうとしたのかもしれない、いいえ、会いたかったのかも‥‥。どちらでもいいの。今は田路さんの言ったこと信じていますよ。母が歩いたことも、神社に行ったこともね」

 そう言って麻里さんは腕を上げた。紐で結わえた鈴が付いていた。

 外に出て自転車のペタルに足を掛けた。後ろで麻里さんが頭をさげた。

 滝さんが亡くなったのに、悲しくなかった。胸の奥のほうが温かさで満たされていた。

 自転車を漕ぐ。ふと涼のことを思った。涼の願いは案外単純かもしれない。次回に発売されるゲームが欲しいとか。そうだ。そうにきまっている。佐知は思い切りペタルをふんだ。


コメント

大嶋 まき

「鈴の音」読ませていただきました。患者の家族の葛藤が、佐知自身の葛藤に重ねられていて、読みごたえがありました。鈴の音で、二つの葛藤がつながっていて、すてきだと思いました。滝さんのお孫さんの死因が伏せられていて、あとで解明するというのも、読みを加速させます。ただ、麻里さんという人物の葛藤がもっとも重いはずなのに、どうしても説明で終わってるところがもったいないという感じもしました。といって、他の方法が思いつくわけではないのですが。佐知自身の葛藤をメインにして、その他の葛藤を軽くする方が小説としてはすんなり読めるかなと思いました。でも介護という場面での情景、家族の心象など、素材をたくさん持っておられるのでは?と思いました。これからもいろいろ読ませてください。リウママもおもしろかったです。

2016.11.01